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映画「レヴェナント」: 実話との比較検証 (ネタバレ、裏バレ満載)


映画「レヴェナント」: 実話との比較検証 (ネタバレ、裏バレ満載)


映画評としてはすでに記事を一つ書いてあるが、こちらは映画評ではなく、映画と実話との比較検証である。しかし、実質的にはかなり突っ込んだ映画評になってしまった。


参考資料: http://www.hollywoodreporter.com/features/real-story-revenant-is-far-867620


http://www.historyvshollywood.com/reelfaces/revenant/


映画が実話とは違うからと言って、映画の価値が下がるわけではないことは言うまでもない。しかし、映画と実話がどんな風に、どれだけ違うのかということも知っておく意味があるだろう。すでにこの映画を観たひとには大いに参考になるはずだ。ちなみに、“裏バレ”とは、“映画製作の裏ばなしをバラすこと” でザウルスの造語である。


この映画の主人公である、ヒュー・グラスというアメリカ開拓時代の男の冒険談はアメリカでは有名で、いくつもの本が書かれている。今回の映画は、2002年出版のその最新の本(左端)に基づいている。(実は、The Revenant の映画化の動きは出版前の2001年から始まっており、草稿の段階で映画化の独占契約がすでに済んでいた。ということは、15年後封切の映画の “ストーリー探し” を今すでにやっているということだ。ハリウッド恐るべし。)



 


映画と実話のストーリー比較検証


映画: 1823年、西部開拓時代のアメリカ北西部、極寒の荒野の中、狩猟をして毛皮を採取するハンターチームはネイティブアメリカンの一団に襲われ多大な犠牲にあいながら命からがら船で川を下る。


実話: 実際の季節は “夏” という以外は、大筋は符合している。


 


 


 


 


 


 


 


 


映画: チームのひとり、ヒュー・グラスはネイティブアメリカンの妻との間にできた息子、ホークとともにガイドとして同行していた。


実話: グラスにはそういった妻子はいない。


主人公に先住民とのつながりを設けてストーリーに “先住民へのリスペクト” と “歴史的奥行き” を与えるためと、先住民の妻とハーフの息子への “家族愛” という、現代のヒーローには欠かせない条件 を具えさせるための脚色であることは明白である。この先住民の妻は白人の侵略者たちによる村の焼き打ちの際に殺されたことになっており、それを見てしまった息子も顔に大きなやけどの痕がある、というふうに、物語の展開当初からすでに “つらい過去 と怨念を引きずったヒーロー” という設定にしてある。




 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


映画: グラスの提案に従って、船を捨て山越えルートを選ぶ。


実話: チームの隊長の判断で、船を捨て山越えルートを選ぶ。


主人公グラスのガイドとしての有能さ、大自然と先住民に対する理解の深さを示すための脚色と思われる。


 


 


映画: 翌早朝、グラスは見回り中に子連れの熊(グリズリー)に襲われ、瀕死の重傷を負う。


実話: 大筋は、符合している。


グリズリーに襲われたことじたいは、ハンターとしては決して名誉なことではないが、生還すればヒーローである。


 


 


映画: グラスはグリズリーの爪で、喉を搔き切られ、頭皮をえぐられ、体中をずたずたにされ、足の骨を折られる。


実話: 大筋は、符合している。



 


 


映画: グラスは満身創痍になりながらも、ナイフでグリズリーを仕留める。


実話: グラスの叫び声を聞いて駆けつけたチームの二人がグリズリーを射殺する。


油断をしていてクマに襲われ、最後は他人に助けてもらったのでは、“ヒーロー” にはならないのだ。


 


 


グリズリーの爪の大きさと、


満身創痍のメーク作業の様子


 


 


 


 


 映画では驚くほどリアルなグリズリーの動きだが、CG用着ぐるみとCGによる合成である。見事と言うほかはない。



 


映画: グリズリーの襲撃は極寒の冬。 


実話: グリズリーの襲撃は夏。


極寒の冬なら、 “まともな” クマだったら冬眠しているはずだ。イエローストーン公園のウェブサイトやウィキペディアで確かめると、以下のようなことがわかる。


グリズリーは11月下旬には冬眠に入る。つまり極寒の冬になって吹雪いたりする前である。リアルな映像で圧倒されて観客はそのまま受け入れてしまうが、冷静に考えればおかしな話なのである。冬眠の期間はおよそ5~7カ月で、春になってから穴から出てくるのだ。その間、心拍は3分の1、呼吸は1分間に1~2回になり、5~7カ月間排尿も排便もしない。メスのグリズリーの場合は、その冬眠期間に出産して “仔グマといっしょに” 穴から出てくるのは、4~5月である。


ということは、アメリカの 冬の極寒の大自然 の中で、うろうろしている グリズリーの “親子” に遭遇するという設定は 極めて“非科学的” であると言わざるをえない。一般大衆に誤った科学的知識を植え付けているおそれすらあると言えるかもしれない


 


 


映画: 急ごしらえの担架でグラスを運ぶが山越えには足手まといであること、瀕死でもあることから、隊長のアンドリュー・ヘンリーは、死ぬまで見届け埋葬する者を募り、ホークとジョン・フィッツジェラルド、若いジム・ブリッジャーが残ることになった。


実話: 大筋は、符合しているが、残ったのはジョンとジムの2名。グラスの息子というホークは存在しない。


 


 


映画: ジョンは二人がいない時にグラスを殺そうとするが、ホークに見つかり銃を向けられるが、返り討ちにし殺してしまう。


実話: そもそもチームの中にはもともとグラスの息子などはいないし、ジョンはグラスを殺そうともしていない。 


 


 


映画: 「先住民がやって来た!」 と嘘を言ってジョンはジムを騙し、一緒にグラスを置き去りにして逃げる。


実話: ジョンとジム・ブリッジャーはたしかにグラスを見捨てて置き去りにするが、それは実際に追手の先住民達に追いつかれたためである。


 


 


映画: グラスを置き去りにするとき、ジムは水筒を残していく。あとでグラスは自分の火打石を見つける。


実話: 置き去りにするときに、ジョンはライフルなどのグラスの持ち物をすべて持ち去る。


映画では、いかなる極限のサバイバルにも欠かせない “水と火“ が、さりげなく主人公に残されているところに注目すべきである。


 左は映画の中でのジム・ブリッジャー、右は実物


 


映画: 一部始終を見ていたが、大けがの喉で声も出せず、動くこともできなかったグラスは奇跡的に一命をとりとめ、折れた足を引きずり這いながらジョンを追う。


実話: 大筋は符合。 


 




 


 


 


 


 


 


 


映画: 置き去りにされたグラスは、這いずり、やがてびっこを引きながら人里を目指す。


実話: 季節以外、大筋は符合。


 


 


映画: 途中先住民に襲われ、馬ごと崖から墜落する(50 feet = 5階建てビルの高さ)。吹雪の中、死んだ馬の腹を切り裂いて、臓物を出し、代わりに自分がもぐり込んで凍死を免れる。


実話: 馬ごとの墜落の話はないし、そもそも季節は夏なので、暑い盛りに馬の腹に入る必要性はほとんどないだろう。


 


 


 


 


 


すでに重傷だった人間がどうしてこれだけの高さから墜落しても助かるのか?いくら雪の上でも、どうして馬が死んで、重傷の人間が助かるのか不可解というほかはない。どうやら、このエピソードは、馬の腹を割いて中に入るという “極限的サバイバル術” を観客に見せつけるために創作されたもの 思われる。そのためにまず先住民の一団に見つかって追われ、そして崖から墜落させて、死んだ馬が出現するという必然的プロセスが必要だったのであろう。




 


 


 



 


 


 


 


この極限的サバイバル術は、実はディスカバリーチャンネルの「極限サバイバル術」で冒険家ベア・グリルスが2007年の番組中でラクダの死骸で紹介したもので、欧米では非常に有名である。「レヴェナント」の監督か脚本家もこれを見ていたに違いない。ベア・グリルスは究極のサバイバリストとして日本でも人気がある。


 


 


ちなみに、墜落する馬も、腹を割かれる馬も、ラテックスやシリコンの作り物である。最近のハリウッドでは “動物虐待!” “アメリカ先住民差別!” などと批判されないように最大限の注意を払って映画を製作している。そうしないと、思わぬところで足をすくわれ、逆宣伝に使われて、興行収入上莫大な損失を出してしまうからだ。


  


 


映画; バッファローの肝臓を生で食べる。


実話: バッファローではなく、犬を殺して食べる話がある。


 ちなみに、映画中グラスが遭遇するバッファローの群れは、すべてCGである。しかし殺されて 解体されている一頭だけは違う。とは言っても、本物ではなく、プロップ(作りもの)である。しかし、話はさらにややこしくなるが、グラス役のディカプリオが喰らいついているのは本物のバッファローの肝臓なのである。プロップ(舞台道具)担当者は、わざわざ プロテインで作った本物そっくりの肝臓 を用意したのだが、ディカプリオは役者魂から 「本物でいく!」 と宣言したのだそうだ。そして、ハリウッドセレブのご多分にもれず、彼はベジタリアンであるという “究極のややこしさ” がここにはある


 


 


映画: グラスは息子ホークの敵を討つために悪玉ジョンを追跡する。


実話: グラスは奪われた自分の大事なライフルを取り戻すためにジョンを追跡する。(ホークという息子はそもそも存在しない)


 


 


映画: ジョンは山に逃げ込み、追手を待ち伏せする。


実話: ジョンはテキサスに行き、軍に入隊する。


当時、兵隊を殺すと重罪になるという法律 があったが、ジョンがそれを目当てに入隊したのかどうかは不明。


 


 


映画: グラスはジョンを山中で追い詰め、二人は雪の上で死闘をくりひろげる。


実話: そうした記述は皆無で、グラスは自分のライフルを奪還するためにはるばるテキサスまでジョンを追跡する。


映画では、リアルタイムのタイムスケールでの物語の展開を重視するので、強引に敵(かたき)同士を雪の上で対決させることになる“雪の上” という設定 は、対決場面の映画撮影としては ほぼ理想に近い条件である。対決者双方の動きがよくわかり、しかも出血が一目瞭然ではないか。


 


 


映画: 組み伏したジョンに「俺を殺したって、お前の死んだ息子は帰ってきはしないんだ!せいぜい俺に復讐して楽しむがいい!」と言われ、虚を突かれたグラスは、自らの手でジョンのとどめを刺すことを思いとどまり、“たまたま” 通りかかった先住民たちにその “仕事” をまかせる。


実話: グラスはテキサスでジョンの居所を突き止めるが、兵隊殺しは重罪であったために手が出せない。軍の上官に事情を話し、何とか奪われた自分のライフルを取り戻すことに成功する。


「ヒーロー は復讐の “とどめ” を刺さない」 というハリウッドの伝統的な定石 を踏んで、ヒーローであるグラスは “とどめ” を先住民に “代行” させるのだ。


 



 


映画: “殺された息子の敵討ちと自分を見殺しにした男への復讐” の物語である。愛と憎しみのドラマ。


実話: “奪われたライフルの奪還” というビジネスライクな物語である。グラスは自分を置き去りにしたジムとジョンを許している。


そもそも息子を殺されたわけでもなかったのだから、復讐するほどのことではなかった。実話はせいぜい “奇跡的生還” と “許し” という地味な物語 なのだ。


 


 “極寒の冬” という季節設定


映画では最初から最後まで、冬のアメリカ西部の “極寒の荒野” が舞台であるが、実話では否定しようもなく “夏” なのである。過酷な状況であることを演出するために思い切って極寒の冬に設定したのであろう 、実際問題として 冬ではとても “奇跡的生還” はおぼつかなかったであろう。体温が下がり、免疫系が働かず傷は悪化するし、体は動かず、食べ物もなかなか見つからないはずだ。だからこそクマはそのあいだ賢くも冬眠しているのではなかろうか。


 


取っ組み合いの死闘


ハリウッド映画は “取っ組み合いの死闘” が好きである。スパイ映画でも、弾が切れて取っ組み合いが始まるのだ。不合理なほどに取っ組み合いが展開する。理由は、等身大の生身の闘いにすることによって観客が感情移入しやすくなるからであり、双方の表情が同じカメラフレームに収まり、臨場感が増すからである。互いが物陰に隠れながら撃ち合っていては絵にならないのである。


 


この映画における “復讐” の意味


この映画は“復讐の物語” というふれこみであるが、何のための復讐かというと、直接には2つあろうか。1) 息子を殺されたこと。 2) 自分を見殺しにして逃げたこと。直接には” というのは、この2つの出来事以前に、主人公の先住民の妻は白人たちによる村の焼き打ちの際に殺され、幼い子供だった息子はそれを見てしまったトラウマを引きずり、顔にもやけどの跡を残しているという設定があるからだ。つまり、主人公は白人仲間の前ではおくびにも出さないが、3) みずから白人でありながら実は先住民に大きく肩入れしていて、“白人=侵略者” に対する反感、怨念を抱いているという伏線 が映画の最初から仕込まれているからである。そして、映画の随所で、回想風に “白人=侵略者の蛮行” と、“最愛(?)の先住民の妻” の幻影が繰り返しフラッシュバックするのである。


これは、実話にはまったくない要素であり、先住民文化の破壊に対する近頃のアメリカでの反省の風潮と、先住民の権利回復運動にうまく乗せて、映画の成功につなげようとしたものと考えていいだろう。


つまり、この映画における “復讐” とは実は、“自然との調和に生きる罪のない先住民文化” による “侵略的で邪悪な白人文化” に対する復讐なのである。そしてその復讐を、先住民に対して例外的に理解のある まともな白人(?) = ヒーロー である主人公が “代行” するという構図があるのだ。


こうしたわれらがヒーローが必死に追い詰める 悪玉ジョン・フィッツジェラルドが必然的に “邪悪な白人の象徴” となることは言うまでもない。 何しろ先住民を馬鹿にし、同じ白人すらも裏切る、悪賢い、金の亡者である。こう見てくれば、主人公が最後の最後で、とどめを刺すことを先住民たちに任せているのも実に理にかなっている。こうした隠れたメッセージこそ、ハリウッドでの成功のカギなのである。


 


 


“ライフル” への執着


現代人には想像できないであろうが、アメリカ開拓時代にあって、ライフルは命の次に大事なものであった。ヒュー・グラスのようなハンターにとってはライフルを持つことはほとんど生きることと同義であったのだ。ライフルがあれば、大自然の中でも一人で何とか生きていけたのである。


 


 


“悪魔の一撃” で物語は展開する


けっきょく、実在のジョンがした唯一の後ろ暗いことは、先住民に追いつかれたので、やむなく瀕死のグラスを置き去りにして逃げたということだけである。しかも、実在のグラスはのちにジョンを許している。自分でも同じように行動しただろうとグラス自身も思ったのではなかろうか。


しかし、これでは到底ドラマにならないのだ。ヒーローが痛快な活躍をしてくれるためには、どうしても “極悪人” の存在が必要なのである。“善と悪との戦い” なくしては映画にならないのだ。“極悪” が存在しないなら、創り出せばいい!この映画では、ジョンはドラマの必要性から、グラスの息子を殺すわ、グラスを見殺しにするわ、チームの隊長を殺すわという “極悪人” にされている。光を浴びるヒーローの姿をくっきりと浮かび上がらせる黒々とした影が、正義の味方によって滅ぼされるべき悪の権化が、何としてでも必要なのである。


 


ちなみに、以下は 「Xミッション:極限スポーツのオンパレード」 の最後で、すでにわたしが書いた一節である。


西洋では宇宙は “神の一撃” で始まったと中世以来言われるが、人間の歴史は “悪魔の一撃” で始まったというのがわたしの説だ。これによって、正義と悪との戦いが始まったのだ。考えてみたまえ“悪” なしでいったい何が始まるだろうか?“悪” こそがすべてを動かす原動力ではないか?そしてこれはドラマでも政治でも国際関係でも繰り返され、今やヒーローの出番を作るために悪玉が組織的に動員され、“悪事” が演出されている。ときどき “発生” する “テロリストによるテロ事件” が典型例である。今日の世界でいちばんの “悪玉” は、 “テロリスト” ではなかろうか?そしてそれを先頭を切ってやっつけようとしているのは、 ヒーロー?=アメリカ ではなかろうか?」


 


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