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レヴェナント 蘇りし者 :★★★★☆ 復讐は善か、悪か? ネタバレ有り


星4つ ★★★★☆(4.1)


前評判の高い作品であったが、わたしがこの映画に興味をもったのは “復讐劇” であることをことさらに謳っている点であった。映画、特にアクション映画ではこの “復讐” がテーマになっているものが非常に多い。家族を殺された、妻を殺された、子供を殺された、友人を殺された、そして、自分を陥れた等々の理由で、主人公は悪玉を追い詰める、という必然的なドラマの展開である。


復讐劇の構造


主人公は復讐のために行動するのだから、観る側にとっては非常にわかりやすいし、作る側もそれに沿ってぐいぐい観客を引っ張っていける。


“復讐” ということは、まず最初に悪いことをした奴がいて、主人公はそいつに“落とし前をつける” ために行動するわけで、その意味で主人公は “正義の味方” であり、“ヒーロー” となるわけだ。


つまり、復讐のための行動は、“正義” であり、“善” であるかのようだ。


 


ところが、である。


映画のヒーロー達はドラマのエンディングで、実際に悪玉を追い詰めて、存分に “遺恨を晴らす” かと思いきや、“引き金を引かない” のである。


復讐のための行動は、“正義” であり、“善” ではなかったのか?


 


まるで、復讐劇の最後の土壇場で、引き金を引いてしまったら、“ヒーロー” ではなくなってしまうかのようだ。


それをやってしまったら、“正義の味方” ではなくなってしまうかのようなのである。


「やっちゃえばいいのに!」「同じ苦しみを味わせてやればいいのに!」「殺されて当然の奴なんだから、ひと思いに息の根を止めちゃえばいいのに!」 と観客に思わせながら、我らが “ヒーロー” は、仰向けに横たわる悪玉に向けた拳銃の引き金を引かずに、遅れてやってきたパトカーのサイレンが響く中を、その場を去っていくのである。


何なんだ?復讐は “悪” なのか? 復讐は “善” じゃなかったのか?


つまり、“トドメ” を刺したらヒーローではなくなってしまうというドラマツルギー(作劇術)があるのだ。


このメッセージはこうである。悪人を捕まえるのは良いことだが、処罰は司法にまかせるのが文明世界のヒーロー である、ということだ。つまり、私的報復、敵討ちはご法度 ということである。罰を下すのは法律に則ってなされるべきで、被害者や、遺族が勝手にやってはいけないんですよ、というメッセージである。


法治国家においては、私的報復、私刑はむしろ “悪” なので、ヒーロー達は “トドメ” を刺せないというわけである。報復は、司法が “代行” するというのが世の中の仕組み なので、“多少の不満” はあろうとも、ぐっと我慢をして引き金を引くのをあきらめるのが “正しい” ヒーロー の姿というわけである。どんな物語、どんな映画にも “教訓” つまり、“教育的メッセージ” がある。すべてとは言わないが、ほとんどの復讐劇の “教育的メッセージ” は、「復讐は野蛮で非文明的であり、英雄的行為ではない」 というものである。なので、ヒーロー達は、悪人をさんざん苦労して追い詰めるだけで、あとの処罰は自分の手を汚さずに、国家権力に代行させるというわけだ。


実際問題として、スクリーン上のヒーロー達も、自ら手を下してしまったら今度は自分が警察に追われたり、捕まったりするので、うっかり引き金を引くと、自分にとって “損だ” “ヤバイ” という判断が働いているのだ。


“慈悲の心”、“罪を憎んでひとを憎まず”といった気高い理由からのように演出されるが、ほとんどの復讐劇のヒーロー達も最後はけっきょく “損得勘定” で動いているということだ。


 以上、長くなったが、復讐劇の一般論として理解して頂けたらと思う。


 


 


「レヴェナント」の場合



さて、ディカプリオ主演の「レヴェナント」もほぼこの線に沿ったものである。ディカプリオ扮する主人公、グラスは最後の土壇場でトドメを刺すことを思いとどまっている。追い詰められた悪玉が、主人公に組み伏せられて、こう言ったからである。「俺を殺せば満足か?この俺を殺したって死んだお前の息子は帰ってきはしないんだよ!せいぜい俺に復讐して楽しむがいい!」 極悪人にしてはなかなかの名セリフではないか。



息の根を止めてやろうと相手にしがみついて必死だった主人公は、こう言われて一瞬、虚を突かれて、手を緩めるのだ。実話では、雪山での取っ組み合いもなく、この悪玉ははるばるテキサスまで行って軍に入隊してしまう。当時の法律では、兵隊殺しは重罪だったので、誰も手が出せなかった。


 


あらすじ 


1823年、西部開拓時代のアメリカ北西部、極寒の荒野の中、狩猟をして毛皮を採取するハンターチームはネイティブアメリカンの一団に襲われ多大な犠牲にあいながら命からがら船で川を下る。チームのひとり、ヒュー・グラスはネイティブアメリカンの妻との間にできた息子、ホークとともにガイドとして同行していた。船を捨て山越えルートを選んだチームは森で野営する。翌早朝、グラスは見回り中に子連れの熊に襲われ、瀕死の重傷を負う。急ごしらえの担架でグラスを運ぶが山越えには足手まといであること、瀕死でもあることから、隊長のアンドリュー・ヘンリーが死ぬまで見届け埋葬する者を募ると、ホークとジョン・フィッツジェラルド、若いジム・ブリッジャーが残ることになった。ジョンは2人がいない時にグラスを殺そうとするところをホークに見つかり銃を向けられるが、返り討ちにし殺してしまう。ジョンはジムを騙しグラスに軽く土をかけただけでその場を離れる。一部始終を見ていたが動けないグラスは奇跡的に一命をとりとめ、折れた足を引きずり這いながらジョンを追う。(ウィキペディアより引用)


この映画は「実話にもとづく」という触れ込みだが、“もとづく” ということは相当に “脚色” が入っているということだ。先住民の襲撃から逃れたチームのガイドを務める主人公は独りで森の中を銃を持って偵察しながら歩いている。毛皮会社に雇われた、現地の地理や、先住民に詳しいガイドのはずなのだが、森の中を歩きながらときどき枯れ枝を踏んで小さな音をたてるのにわたしは非常に違和感を持った。そもそも先住民が行く手に潜んでいるかもしれないのに歩きながら身をかがめようともしないのだ。そうしているうちに主人公はクマと遭遇するのである。つまり、主人公の油断、警戒心の不足を演出していた可能性がある。土地勘もあり現地の自然をよく知っているはずのベテランガイドがクマに襲われてしまうという失態への伏線だったのかもしれないと後から思う。映画という芸術ジャンルでは、すべてが計算されたうえで観客に提示されている。小さな物音一つにも意味があるのだ。



クマの襲撃で満身創痍のうえ、喉をクマの爪で搔き切られ、瀕死の重傷を負った主人公、グラスは極寒の荒野に見捨てられ、息子も殺されるのだが、生死の境をくぐり抜けて奇跡的に生還する。そして、憎き敵(かたき)であるジョンを追い詰める。



わたしは思うのである。この主人公が奇跡的な生還を果たせたのは、ジョンが主人公の息子を殺した “おかげ” である と。息子を殺した人間に必ず復讐してやるという燃えるような決意があったからこそ、文字通り地を這い、獣の生血を啜りながら極寒の荒野を生き延びたのだと。ジョンへの 燃えるような憎しみ と、息子の敵(かたき)を討つまでは死んでなるものかという 激しい復讐心 が彼の精神力を奮い立たせ、その精神力が彼の満身創痍の身体を引っ張って行ったのだと。



 


 


 


 


クマの襲撃によるキズを制作中のメーキャップアーチスト


 


 


 


もし、主人公が悪辣なジョンに見捨てられずにいたら、つまり瀕死の重傷のまま治療を受けることもなく担架にくくりつけられたままでいたら、いくら息子がそばにいてもやがて衰弱して、意識朦朧のうちに息を引き取っていたであろう。しかし、そうなる前にその主人公の魂に火をつけたのが “憎き” ジョンだったのである。


 


 


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