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”死後の世界”があるならば


“死後の世界”があるならば


すくなくとも「死後の世界」という言葉はある。よく問題になるのは、その言葉が指し示しているはずの実体がはたして存在するかどうかであるが、ここではそれは問題にしない。その有無の問題は脇において、あくまでも「存在するとしたら」という仮定で、いろいろ質問を立てたいのである。


存在を仮定するということは、「存在する」とも「存在しない」とも断定しておらず、何の立証責任もないので、気楽なものである。しかし、仮定は帰結をともなう。「もしAならば」と言ったら、次に「Bである」もしくは「Bであるか?」と言わなければ意味がない。わたしの場合はもっぱら後者の質問のかたちである。それでは始めよう。


もし“死後の世界があるならば、“そこには誰がいるのか?どんな住人が暮らしているのか?


“死後の世界”というふうに“世界”と呼ばれるのであるならば、まず、今われわれが暮らす世界のように広い場所であろう。しかし、やはり“死後”であるから、生きている人間の暮らす世界ほど現実感があって「生き生き」しているわけではなかろうと想像される。で、そこには誰がいるのか?そこの住人はわたしたちのような“生者”の世界にかつては暮らしていた人たちなのであろうか。そこの”住人”たちは、いわば、よその遠い国に移住したようにそちら、つまり“死後の世界”で暮らしているということであろうか。


論理的に言って矛盾のない一つの可能性として、“死後の世界”では住人はみな“死んでいる”ということが考えられる。これはあまり論じられることのない可能性であるが、十分にありうるとわたしは思う。住人がみな死んでいるということは、定義上、そこの住人にはいっさいの生命活動、身体的、生理的活動も精神的活動もそこでは認められないということになる。しかし、この世界に入ると同時に生命活動が無くなるわけであるから、これでは実質的には“死後の世界”は存在しないと言うのとあまり変わらなくなってしまうかもしれない。


さて、ペット好きのひとは自分がかつて可愛がった犬たちや猫たちが“死後の世界”でこの自分を待っていてくれると思うそうである。なるほど、その気持ちはよくわかる。しかし動物にも“死後の世界”はあるのだろうか?そう言うと、すぐさま“愚問”のそしりを受けることだろう。「動物だって死ぬんだから“死後の世界”があるのは当然でしょう。生き物は人間だけではありませんよ」と。そうか。そうすると、牛にも、クジラにも、マグロにも、ハエにもミミズにも寄生虫にも赤痢菌にも“死後の世界”があるのかもしれない。しかし、もしそれぞれ別々の世界だとしたら愛犬と会えない可能性がある。この現実世界と同じように共存したかたちだとしたら、この現実世界に非常に似た世界であると想像される。


もし、そこの世界にも何らかの生活が営まれているのであれば、まずわたしが知りたいのは、死後の世界には“墓場”があるかどうかである。言い方を変えるならば、“死後の世界”の住人(人間以外も含めて)はそこで再び”死ぬ”ことがあるのか、もう一回“死ねる”のかという質問である。


さて、もし“死後の世界”に“死ぬ”ということがないとすると、そこの“住人”の人口は着実に増える一方である。流入だけがあり、流出がなければどんどん溜まる。わたしたちのこの現実世界には入口のドアがあり、この世界に生まれてきた者たちはそのドアから入ってくる。しかし、いっぽうこの部屋Aには反対側に出口のドアがあり、死んだ者はそこから出ていく(流出する)ことになる。左から入ってきた者はしばらくすると右のドアに消えるのである。飽和や滞留の心配はない。いずれにしても、わたしたちの部屋Aの出口のドアの向こうにあると想定される隣りの部屋B(死後の世界)には部屋Aからの入口しかなく出口がない(”死”がない)とした場合、そこの住人の数は日に日に増え続けることになるだろう。わたしたちの現実世界のこの隣りの部屋Bがいつから存在しているか知らないが、生命が誕生してからだとすると、少なくともこの地球上だけでも、これまでの生命の歴史を振り返ると、気が遠くなるほどの数の”住人”がそこにに滞留してひしめきあっていることになろう。


わたしたちの現実の世界では“死ぬ”ということがあるので、社会や世界の“住人”は徐々に入れ替わり、時代が変わっていき、それが連なって一本の長い筒のような歴史となっていく。しかし、もし“死後の世界”つまり、となりの部屋Bに“死ぬ”ということがないとすると、この入れ替わりがないことになり、時代の変化もなく、もはやそこでは時系列的な長い筒状の歴史は成立しないことになる。すべてが同一平面上に存在し、そこでは住人がひたすらその平面上で増え続けるということになろう。同じ平面上にアレキサンダー大王も織田信長もヒトラーもいることになる。クレオパトラもマリリン・モンローも小野小町もそこでは皆死なずにいるのであるから、“生きている”とは言いにくいにしても互いに同時代人ということになる。古代中国の劉邦の軍もいれば古代ローマ軍もいれば蒙古軍もいれば南北戦争の北軍もいて同じ平面上でひしめくことになろう。すべてが滞留し、澱んでくることであろう。


しかし、もし“死後の世界”にも“死ぬ”ということがあるのであれば、その部屋Bから次のドアを通って“2回目の死”を経験した住人が少しずつ次の部屋Cに移っていき、この世界と同じように死後の世界でも大河のようにゆったりと歴史が流れていることになる。ただその場合、“死後の世界”の住人はいずれまたその次の部屋Cで3回目の“死”を迎えることになるのであろうか。隣りにさらに部屋D、つまり3つ目の部屋があっていずれは時が来ればそちらに移ることになるのであろうか。そうだとしたら、このドアで連続した部屋の連鎖はいったいどこまで続くのか?われわれはいったいいくつのドアをくぐることになるのであろうか?“死後の世界”で再び“死ぬ”ことの問題はこのくらいにしておこう。


実はわたしは“死後の世界”について、これとは違う一つの深刻な懸念を抱いている。それは“死後の世界”における“紛争”である。“死後の世界”は素直にとれば、おそらく死んだひとがいる場所であろう。しかし、ひとの死に方はさまざまであると思う。天寿を全うして幸せな最期を迎える人もいるであろう。また一方で、病気、事故、大災害、戦争、殺人事件などの犠牲になって命を奪われるひともいることであろう。


たとえば殺人事件の被害者として無念のうちにこの世を去ったひとはいくらでもいるはずである。なかには信じていた相手に裏切られて無惨に殺されたような場合もあるだろう。そしてその殺人の加害者が法の裁きも受けることもなく、捕まることもなく、のうのうと暮らしているということもありうると思う。かりにそうした非道な殺人犯がある日突然交通事故で死んで、“死後の世界”にひょいとやって来たとしよう。そこにはすでにその殺人犯が殺した被害者がいるわけである。両者が“死後の世界”で顔を合わせる可能性は少なからずあると思うのだが、いかがであろうか。もちろん被害者のほうが忘れていて気づかないこともあろう。しかし、自分に最大の苦しみと最大の被害(死)を与えた相手を忘れるのは難しいことではなかろうか。いずれにせよ両者が会いまみえることは大いにありうると考えていいのではないだろうか。そうした場合、最悪のケースとして殺人事件の被害者自身による“報復殺人”に発展する可能性も大いにあるのではなかろうかとわたしは余計な心配をするのである。たまたま遭遇するケースばかりとはかぎらない。殺人の被害者によっては、加害者が“入ってくる”のを手ぐすねを引いて虎視眈々と待ち構えていることも考えられる。


これは殺人事件という個人間のケースであるが、戦争、民族浄化といった集団的なケースでも同様なことがありうるとわたしは懸念するのである。その場合、当事者である集団と集団とのあいだに起こりかねない紛争は大規模なものとなり、“報復”は“再報復”を呼び、収束困難となる可能性もある。とすると、“死後の世界”は一般に思い描かれているよりもはるかに騒々しく物騒な場所である可能性がある。


人やあってわたしにこう指摘するかもしれない。「“死後の世界”ではたがいに許しあって、争いごとなんかありませんよ」と。わたしはそうは思わないのである。猟奇殺人者に幼い娘を無惨に殺された父親が“死後の世界”でその犯人とにっこり握手を交わすとはとても思えないのである。

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コメント

うむー

http://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face2_lose_s.gif">確かに深夜には死後の世界のアニメたまにみます天国はここにずーといたい地獄は人として再び生きるかこのまま罪償うかといいことして天国は難しいと聞いたことが魂だけになつタラスカイハイのこの世に未練残しふらふらとさまようのも増えていると噂で

Unknown

日本の仏教ではなく、スリランカの初期仏教の経典(ブッダが実際に語った言葉)の中では、霊界も地獄と天国と同様に輪廻の一部だそうです。
人間界が中間で、上に天国が6階層くらい、下に霊界や畜生界や地獄が6階層くらい…だったような気がします。
基本的に、転生するときは前世の記憶を失うので、恨みを引きずることは稀なのかもしれません。
ほとんどの悪霊は、その魂の癖として悪さをするのだと思います。

霊界

http://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face2_hungry_m.gif">近頃霊界の話の本が前世現世来世しっかり書いてある確かに前世果たせなかった続けて同じ世界に驚くのは前世はお殿様だった人が平凡なサラリーマン前世美人舞台今では劇団四季キヤッツ風の人気役者地方めぐり現世は平凡な専業主婦前世は大地主温泉の宿屋の主人今は下町の八百屋の息子前世は物凄い大物現世は平凡な人生だけど町内のイベントになると前世の力出る人出無い死後の世界に入ると過去の記憶がデリートされてたまに前世の記憶前々世の記憶も覚えているそれはデリートできない凄い人は前前々世まで死後の世界に長い間暮らして下手に室町時代江戸時代のこと話せば俗社会からは冷たい目で背を向けられる死後の世界長く暮らすと前前々世前々世前世の記憶がデリートしにくいと聞いたことがhttp://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/eto_hitsuji.gif">

面白い

非常に楽しい仮説ですね、コレはイイ

自分は死後の世界は無いという事に考えが帰結しているので、こうしたアプローチには、新たな視点を感じさせて頂きました。

確かに、無いと告げるだけよりも膨らみのある会話ができそうですね。
神はサイコロを振らない。と、云っても。

伝わらない人には伝わないですから。

↑SEAMAN さんへ

やっと理解者が現れて、嬉しいです。想像の世界は論理によっていくらでも広がるという1例です。

「あの世」は体験

一昨日、和歌山で67歳のお父様が、39歳の長女をロープで首を絞めて殺害した、というニュースが出ていました。
ご先祖様が「あの世」に御成仏できないでこの世を苦しみながら彷徨っておられると、子孫に「憑依」して来られます。
この事件の場合、お父様に気付いてもらいたいので、最も可愛いがっている長女に憑依されるのです。
これが精神病の原因です。
お父様は彷徨っておられるご先祖がどなたかを探し、一心に供養すれば解決するはずでした。供養すればそのご先祖様は安心されて長女様を離れ、「あの世」に旅立たれるはずでした。
ここで云う供養とはお金をつかうことではなくて、想いを届けることです。今そこに在る恩人のごとく感謝することです。
(しかし手遅れになってしまいました)
「あの世」とは体験なのです。

↑供養とは?

成仏できない(問題1) → 憑依する(問題2) → 供養する(解決策) → 成仏できた(解決)
ということでしょうか?
この場合、“成仏できない” とは死者の世界にすんなりと移行できていないことを指すように思えます。途中で引っかかっているような。もしくは不味いレストランから出てきて不満があとを引いているような。
しかし、解決策としての “供養” とは何でしょうか?rumicolove さんは“感謝” と言っていますが、なぜ死者に “感謝” しなければならないのですか?生前の“恩義” にですか?死者は生者に “感謝” を要求するのですか?生前に受けた感謝が不足だったということでしょうか?

Unknown

ザウルスさんのご質問について、全てYESです。その通りです。
「死後の世界はあるか」は、「霊魂は不滅か」と同義です。成仏できないご先祖様の魂の”憑依”が精神病の原因であるというのは、霊魂不滅説に依ります。和歌山の娘さんがご父母に激しい暴力を加えたと報道されていますが、おそらく或るご先祖が娘さんを通して殴っていらっしゃるのです。(もう手遅れですが)
話は代わって死後の世界では被害者と加害者で深刻な争いが絶えないのでは、というご指摘ですが、本当にそうですよね。私もそう思います。世田谷一家殺害事件の被害者4人様の魂と、K国人の醜い魂が同居するはずがないですよね。
ましかし、あと数年で死後の世界を目の当たりに出来るでしょうから、それを楽しみに日々励みたいと存じます。

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真実は、受け入れられる者にはすがすがしい。
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